大阪玩具・人形住吉講

2017/02/27

第二章 住吉大社と石灯籠(1)
(一)住吉大社の由来
今から240年前の宝暦12年に当時の翫物商が航海の安全を祈って「住吉講」を組織して、常夜石灯籠を献納した住吉大社とは如何なる神社なのだろうか。
奈良時代に舎人親王が撰上した「日本書紀」巻一には次のように記述されている。
(略)伊弉諾尊、既還、乃追悔之曰、吾前至於不須凶目汚穢之処。故当滌去吾身之濁穢。則往至筑紫日向小戸橘和粟木意原而祓除焉。遂将盪滌身之所汚、乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱。便濯之於中瀬也。因以生神、號曰八十枉津日神、次将矯其枉而生神、號曰神直日神、次大直日神。又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命。次底筒男命。又潜濯於潮中、因以生神、號曰中津少童命。次中筒男命。又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。凡有九神矣。其底筒男命、中筒男命、表筒男命是即住吉大神矣。(略)
(略)伊弉諾尊(イザナギノミコト)、既に還って、追って悔いて曰く、「吾前に不須凶目汚穢之処(いなしこめきたなきところ)に至る。故に当に吾が身のけがれを洗い去らん」とのたまいて、筑紫の日向の小戸の橘の木意原(あわぎはら)に至りて祓(みそぎ)を除(はら)いたもう。ついに身のけがらわしい所を盪滌(そそ)がんとされたもう。すなわち興言(ことあげ)して曰く「上つ瀬は太(いた)くはやし、下つ瀬は太くぬるし」とのたまいて、中つ瀬に濯ぎたもう。因って以て生める神の號を八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)と曰う。
次にその枉(まが)れるをなおさんと、生める神の號を神直日神(カンナオヒノカミ)と曰う。次に大直日神(オオナオヒノカミ)。また海底に沈み濯ぎたもう。因って以て生める神の號を底津少童命(ソコツワタツミノミコト)と曰う。次に底筒男命(ソコツツオノミコト)。また潮の中に潜き濯ぎたもう。因って以て生める神の號を中津少童命(ナカツワタツミノミコト)と曰う。次に中筒男命(ナカツツオノミコト)。また潮の上に浮き濯ぎたもう。因って以て生める神の號を表津少童命(ウワツワタツミノミコト)と曰う。次に表筒男命(ウワツツオノミコト)。すべて九神(ここのはしらのかみ)います。その底筒男命、中筒男命、表筒男命これ即住吉大神なり。(略)
また和銅5年(西暦712年)に太安万侶が撰上した「古事記」は以下のように具体的に描写している。
こうして身につけていたものを脱ぎ捨てた伊耶那岐命(イサナギノミコト)は、「上の潮の水の流れが速い。下の流れがゆるやかだ」と仰せられて、初めて流れのほどよい中の瀬に落ちるように水中にもぐって、身の穢れを洗い清められる時にお生まれになった神の名は、多くの凶事をつかさどるという意の八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神(オオマガツヒノカミ)である。
この二柱の神は、かの穢れのひどい黄泉国に行った時に触れた穢によって生まれた神である。次にその禍をもとの状態に直そうとして生まれた神の名は、神直毘神(カムナオビノカミ)と大直毘神(オオナオビノカミ)、次に伊豆能売(イズノメ)である。
次に水の底にもぐって身を洗い清められる時に生まれた神の名は、海をつかさどる底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)と、航路をつかさどる底筒之男命(ソコツツノオノミコト)である。次に水の中で身を洗い清められる時に生まれた神の名は、中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)と中筒之男命(ナカツツノオノミコト)である。
次に水の表に出て身を洗い清められる時に生まれた神の名は、上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ)と上筒之男命(ウワツツノオノミコト)である。この三柱の綿津見神は安曇連(あずみのむらじ)たちが祖神として斎み謹んでお仕えする神である。というわけは、安曇連たちは、彼らのお仕えする綿津見神の子の宇都志日金祈命(ウツシヒカナサクノミコト)の子孫だからである。またその底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、住吉神社に祭られる三坐の大神である。
以上のように、奈良時代に撰上された「日本書紀」や「古事記」にとりあげられているのが住吉大神である。更に「日本書紀」の巻の第九「神功皇后」のところには、神功皇后が女性ながら崩御された天皇に代って新羅に兵を進められるに当たり、住吉大神、即ち底筒男命・中筒男命・上筒男命の三柱の神は「和魂は王身に服いて寿命を守り、荒魂は先鋒として師船を導かむ」と仰せられ、その神威によって新羅を降状させることができたと云う意味の記述がある。
そして、皇后が新羅を伐った翌年の春に、海路をとり難波を目指したが船が動かなくなったので表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神に教えを乞うと、「吾が和魂(にぎみたま)を大津の渟名倉(ぬなくら)の長峡に居(ま)さしむべし。すなわち往き来う船を看そなわさむ」と三柱の神が宣託された。そこで神の教えのまま三神をここ住吉の地にご鎮座させたまうと平穏に海を渡ることができたと記述されている。「日本書紀」では「亦表筒男、中筒男、底筒男、三神誨之曰、吾和魂、宣居大津渟名倉長峡、便因看住来船。」於是隨神教、以鎮座焉、則平得度海。」と表現されているがこれが住吉大社の縁起となっている。また、その文中にあるご宣託「便因看往来船。」が海上守護の神として、航海の安全を願う人々の信仰の対象となっているのである。
古来から瀬戸内海の東端に位置する難波は航海の要衝であったと思える。「難波津」が何処にあったかはいろいろと議論のあるところで、定説と云うものはない。大阪市立大学名誉教授で歴史学者の直木孝次郎博士は山川出版社刊「大阪府の歴史」の中で、「難波には港津として猪飼津や桑津などの港を思わせる地名があることから、難波津は、一カ所にかぎらず、その総称ではないかと言っておられる。」と書いている。難波津に隣接して住吉津があり、この津は住吉大社の南を流れる細江川の入江にあったと考えられているようである。従って古来から住吉津は船の発着に重要な地位を占めていると言えるのである。
このことについて、直木博士に直接会って確認すると、「全くその通りで、遣唐使は難波津から船出をし、住吉大社の神官が唐までついて行ったという古文書がある」と説明された。







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