大阪府玩具・人形問屋協同組合連合会

2012/12/02

連合会について
【組織概要】
組織名   大阪府玩具・人形問屋協同組合連合会
理事長   熊本 和浩
所在地   〒537-0013 大阪府大阪市東成区大今里南1丁目2番11号 OTビル7階
電 話   06-6971-2250
FAX   06-6971-2251
構成組合員
    ・大阪府人形問屋協同組合
    ・大阪府大物玩具問屋協同組合
    ・大阪府玩具問屋協同組合

【役員名簿】
理事長   熊本 和浩
副理事長  又吉 康隆 
副理事長  徳永 隆司
専務理事  根岸 秀和  
会計理事  西野 憲一
理  事  増村 和行
理  事  丹生 光宣 
理  事  三木 啓二
理  事  天野 善博 
理  事  平尾 文男
監  事  甲山 裕士
理  事  辰巳 慎一 
理  事  田中 俊一
監  事  石原 啓之
監  事  山本 裕史
(以上15名)

【各組合の構成】
※別ウィンドウで表が開きます
  大阪府人形問屋協同組合
  大阪府大物玩具問屋協同組合
  大阪府玩具問屋協同組合


【沿革】

第1節 大阪府玩具・人形問屋協同組合連合会の設立
昭和39年に大阪府玩具問屋協同組合(当時は大阪府玩具問屋商業協同組合であるが以下問屋組合と略称で表記)、大阪大物玩具問屋協同組合(以下大物組合と略称で表記)、大阪府人形問屋協同組合(以下人形組合と略称で表記)の3つの協同組合が設立された。
しかし、どうしても皆で継続していきたい事業や会館設立の問題などがあるので各組合をまとめる機関が必要となったため、翌昭和40年1月に連合会を結成しようという機運から、起草委員会が発足した。委員会で定款その他を審議の上、3月9日に創立総会が開かれ、大阪府玩具・人形問屋協同組合連合会(以下連合会と略称で表記)が設立された。そして初代理事長に人形組合の理事長である木村俊三を選出したのであった。
総会当日の議事録の主なものをまとめると次の通りである。
出席者は木村俊三(人形組合理事長)、徳永隆生(問屋組合理事長)、伊藤巖(大物組合理事長)の3理事長と金堀潔(問屋組合)、田中清吉(人形組合)、尾上三郎(問屋組合)松井保(大物組合)と広瀬事務局長で、金堀潔の司会のもとに進行された。
そして、承認された事業内容は次の通りである。
(1)従業員の最低賃金に関する協定その他組合員の事業に関する協定。
(2)組合員の経済的地位の改善のためにする団体協約の締結。
(3)組合員の事業に関する経営および技術の改善向上、または組合事業に関する知識の普及をはかるための教育および情報の提供。
(4)失業保険法第5条3の規定による失業保険事務組合としての業務。
(5)組合員の福利厚生に関する事業。
また出資金に関しての取り決めは次のようになっている。
旧組合の資産総額を60万円と評価し、これを基準として3組合の構成人員割りに配分して下記の通り3組合それぞれの持ち分を決定する。
 問屋組合 27万円(45人)
 大物組合 21万円(35人)
 人形組合 12万円(19人)
役員については各組合より7人を理事として選出しもらい、計21人の理事の中から連合会理事長以下任期2年の役員を選出することとし、特に理事長は3組合の輪番制とすることを定款で明記することなどを申し合わせている。その結果、初の役員構成は下記の通りになった。
  • 理 事 長 木村俊三(人形組合)
  • 副理事長 徳永隆生(問屋組合)・伊藤巖(大物組合)
  • 専務理事 田中清吉(人形組合)
  • 会計理事 塩路重雄(問屋組合) 森清一(大物組合)
  • 理  事 上阪清次、熊野伊三郎、増村正晴、汐田稔(以上人形組合)
         尾上三郎、甲山準吉、溝端音次郎、金堀潔(以上問屋組合)
         越野禎介、仲村徳太郎、石原真二、松井保(以上大物組合)
  • 監  事 中川吉蔵(人形組合)・谷嘉春(問屋組合)・山本隆造(大物組合)

そして具体的な活動を伴う予算案については連合会の経費はすべて賦課金で維持できるようにすることを原則とし、旧組合の経費120万円を念頭において予算組みをすることを申し合わせている。こうして連合会は新しく船出するのである。

第2節 「子供の日」の事業が定着
毎年5月5日の「子供の日」が近づくと、連合会は大変忙しくなる。各組合を通じて組合員を動員して、その分担した役割に応じての準備が始まるからである。
「子供の日」が制定されたのが、ちょうど旧組合ができた頃(昭和23年7月)で、あったため、旧組合の行事として定着するのも大変はやく、翌24年から始まった。
連合会もまた、この「子供の日」の行事は引き継ぐことになり、主な行事の一つとして今日までずっと続いている。
毎年大阪府と大阪市を通じて施設に寄贈する玩具や人形類が最近では3万点にもなり、金額にして4000万円にものぼる。こうした商品を集めるのも大変だ。毎年担当を決めてトラックで集荷して、桜の宮にある大阪市の倉庫へ運び込む。トラックで7台分にもなるため、これも大仕事である。
毎年5月始めに、府庁前と市庁前で贈呈式を行っている。当日は、まず早めに府庁の玄関前に玩具や人形をずらりと並べておき、理事長以下連合会の役員は「5月5日は子供の日」と染め抜いたタスキをかけて被贈呈者の代表としての知事を待つわけである。やがて、府の関係者を伴なって、知事が玄関に出てくると贈呈式が始まる。
連合会の理事長が贈呈の目録を読みあげて、知事に手渡すと、知事からは感謝状が手渡されてセレモニーが終わるのである。時によっては知事が連合会の労をねぎらい、雑談したり、列席の施設の幼児に話しかけたりする。大阪市庁玄関でも同じように、市長が出席して、贈呈式が挙行されるのである。こうした情景は実に50年間にわたって続けられており、連合会からおもちゃや人形をプレゼントされた子供達は大変な数にのぼるものと思われる。勿論、最初は「子供の日」をPRしようと云うことから、戦後の商業協同組合時代に始まった行事であり、贈呈式は知事や市長が出席するため、よくマスコミにとりあげられ、その効果はそれなりにあがっているものと評価されているのである。


第3節 従業員の雇用形態の変化
玩具、人形問屋の従業員の形態は戦後の世相を反映して、戦前とすっかり変わってしまっている。戦前は一生懸命に商売を覚え、汗を流し、丁稚から手代に、そして番頭に出世して、将来は暖簾分けで主人となり、独立するというのが、奉公に出る時の目的であった。そのために何らかの縁故で主人を頼って大阪に来る人が多く、近畿地区は勿論のこと、北陸、中国、四国、九州地区からも就職している。従って、その勤務形態も、ほとんどが住み込みで、朝は5時に起きて、店の前を掃除して、夜は遅くまで働き、休みも盆か正月しか許されなかったのであった。
しかし、戦後の特に高度成長時代に入って、若年層の労働力を必要とする企業が増え、地方にもどんどん企業が進出するようになると、地方での雇用機会が増えることになり、地方の若者を雇用することがだんだん困難になってきた。また、住宅事情や交通網の整備により、住み込みよりも通勤を選ぶ従業員が増え、勤務先を簡単に変える若者も現れるようになった。
こうした世相に対処して従業員の定着を図るために、商業協同組合時代から、いろいろな取り組みがなされた。週休制もその一つであったし、失業保険組合への加入もそうであった。また組合の厚生部によるレクレーションもそうしたものの一環であった。
そして昭和40年代の連合会時代になると、ほとんどの雇用形態が通勤のかたちになり、週に1日は休日になった。また、ほとんどの店が株式会社などの法人になり、永年勤続者で、実力のある人は勤務先で取締役等の役員に抜擢されて、経営の一端を担うようになった。勿論、主人からの「暖簾分け」もなくなって、どうしても独立したい人はそれなりに、得意先や金融機関等と相談して会社を組織する形で独立していくのであった。
大阪の高度成長時代のシンボルとなった万国博覧会の会場が千里丘陵に決まり、開会にむけての工事が進捗してくると、大阪の商人はその波及効果に対する期待感が大変大きかった。しかし、大工の手間賃等が暴騰し、きつい仕事が敬遠されるに従い、中学卒業者が金の卵と呼ばれ、就職担当の中学の先生はもてもてであった。そしてこの高度成長は人手不足と共に初任給の高騰を引き起こした。

第4節 玩具人形会館の建設
商業協同組合時代から、何度も議論されてきた会館の建設問題も昭和45年になると、かなり具体的になってくる。3月14日にアジアで初めての日本万国博覧会が開会された直後の4月3日の役員会で玩具人形会館(以下会館と表記)の建設予定地を南区(現中央区)瓦屋町3番丁42番に決定すると共にその土地の買収契約を承認することになる。取得された土地は約48坪であった。そして、各組合によって会館の建設費用を積立てることになり、翌昭和47年8月の総会において資金目標3000万円が達成されたと報告されている。昭和48年10月には会館建設委員会が創設されるが、それから更に5年の歳月を経て、昭和53年11月2日にやっと地鎭祭が挙行され、30日に上棟式が行われた。年を越えてやっと完成するが、会館の竣工式は昭和54年2月13日、事務所の移転は3月26日に行われたのであるが、ここに至るまで、会館建設が発議されてから実に30年という長い時間と労力がかかったことになるのである。
こうした事情について、評議委員で当時の会館建設委員長であった池田裕恒が次のように語っている。
「皆さんの総意で、はやく会館を持とうやないかという話は古くからありました。
しかし、会館を維持していく仕組みがはっきりしていなかったのです。出資金で先輩が土地を用意してくれていましたので、建設委員会では建物の設計などを検討することになりました。私はその土地に1階はオール駐車場、2階は連合会の事務所と会議室などにし、3階以上は貸しマンションというように高層にして建てたらいいと思っていました。
そうすれば、月々家賃が入るし、いくらかの維持費がでてくると。しかし敷地が細長い上に坂になっていたために、基礎工事等の問題なんかもあり、現在の2階建てに決まりましたが、そうなるまで大変時間がかかってしまって………」と会館の建設がおくれた理由について語っている。

第5節 創立30周年の記念行事
昭和53年9月2日、大阪道頓堀の中座において、組合創立30周年の記念行事が連合会主催で開催された。その理事長挨拶の中で徳永隆生は連合会の歩みを次のように述べている。「古くは徳川の初期、堺貿易の繁栄と共に松屋町横堀川一帯は玩具、駄菓子を商う店が密集し、明治の始め玩具を扱う業者が翫物会として団体の動きを始め、大正時代へかけて玩具同業会がうまれ、戦時中の統制協会としての苦難の途を経て、組合組織を改組する等、昭和23年6月現在の連合会の前身母体である商業協同組合が創設されて、早くも茲に満30年を迎えることになりました。その間、業界の発展、時代の流れと共に組合組織の単一専業的機能化が進み、昭和39年9月組合内三部会は夫々問屋組合、大物組合、人形組合の三組織に改組され、夫々伝統と特色ある組合活動が活発に行われることになりました。」と連合会の沿革を簡単に紹介している。
この日の式典に伴う主な行事は15周年以来止まっていた表彰式であった。
表彰式は森清一連合会理事の司会ですすめられ、大阪府知事表彰は組合功労者が9名、優良従業員が44名であった。大阪市長表彰は優良従業員が55名、大阪府中小企業団体中央会長表彰は同じく優良従業員82名であった。またすでに知事表彰を受けた優良従業員として連合会から感謝状を授与された者は52名、勤続5年以上の従業員で組合から感謝状を授与された者は135名で、当日名前を呼ばれた人は合計377名に及んだ。
なお、当日連合会顧問の梅本敬一先生に対し、徳永連合会理事長より感謝状が贈呈された。

第6節 3組合創立20周年を迎えて業界物故者の慰霊祭を執行
昭和59年秋、3組合は創立20周年を迎えることになった。それを記念する意味で業界発展に貢献してきた先達の遺徳を偲んで9月13日に慰霊祭を執行することになった。当日は四天王寺の和光館において、徳永隆生、森清一、熊野伊三郎の各3組合理事長が祭主となり玩具人形業界物故者の霊を慰めた。この慰霊祭の開会の辞で、森清一は次のような要旨の挨拶をしている。「連合会の前身である大阪府玩具問屋商業協同組合の設立以来、40年近くにもなる。この間、組合員、組合役員として業界に尽力され、亡くなられた方々のご遺族をお招きし、業界の諸先輩に感謝し、その功を讃え慰霊法要を営ませていただきたい」
この開会の辞の後、読経があり、徳永隆生理事長により祭文が朗読された後、来賓、招待者に続いて組合役員、一般参拝者の焼香が続いた。

第7節 大阪府卸団体連合会への加盟
昭和58年1月大阪府下の卸組合によって大阪府卸団体連合会(略称OWA)が設立され、連合会もその下部団体として入会し、異業種と交流することになった。OWAは文字通り、国際的なつながりもあり、特に余暇関連部会は研修会の名のもとに海外研修も多く実施されている。そうしたことが契機になって、連合会の海外研修もはじまり、昭和59年6月には中国玩具展覧会視察旅行が実施され、多くの組合員が参加して見聞を深めた。
連合会は昭和60年3月には台湾玩具見本市視察旅行を主催し、多くの組合員が台湾の業者と交流することになった。そして、昭和63年4月には大阪国際見本市に出展のため来阪した台湾の玩具業者を接待するため、その歓迎会を開催するほどの関係になった。
連合会では平成6年5月に韓国への研修旅行も実施している。
また、OWA海外研修としては、平成3年9月に台湾・香港へのクルージング、平成6年11月に香港・ベトナムへ研修旅行、平成8年11月にミャンマー研修旅行を実施している。特にミャンマーへの研修旅行は組合員を慕って行ったのであったが、現地で観光大臣(日本の通産大臣に相当)と会見することになり、その模様が現地のテレビで放映されるということもあって大変盛り上がったのであった。

第8節 住吉大社常夜石灯籠の改修
海の守護神である住吉大社には翫物商によって、その航海の安全を願って一対の常夜石灯籠が宝暦12年(1762)に建立され、何度かの改修によって今日まで維持されている。前回は昭和36年に補修が行われたが、それから30年近くが経ち、石灯籠の傷みがひどいので、平成3年の式年遷宮に合わせて大改修をすることになった。そのために、まず準備段階として、平成元年11月26日に玩具人形商石灯籠保存会、大阪住吉講が年次祭典の後、大野屋迎賓閣会議室で総会を開催し、役員改選を行うと共に、講の名称を「大阪玩具・人形住吉講」と変更することを決めた。そして、以後はこの「講」の役員が中心となって具体的に事業を推し進めていくことになったのである。その時に決定した役員は次の通りであった。
 講  元 松井保、副講元 森清一、尾上幹太、中須久雄、増村和行
 書  記 森口安智、会計 成川隆次郎、谷澄夫、委員 山浦憲二、甲山義隆
 会計監査 矢野武、相談役 熊野伊三郎
大阪玩具・人形住吉講による常夜石灯籠の改修工事は何度も打合せを行った結果、専門工事会社の田中家により、予算1700万円で施工されることになった。そして2年間にわたって、東京、名古屋、京都など各地区の玩具・人形業界にも協力を依頼し、その協力を得て、住吉大社の遷宮に併せて完成、平成3年5月30日に除幕式が行われた。式は副講元・中須久夫の司会で進行し、出席者一同が拝殿においてお祓いを受け、来賓による玉串奉納の後、松井保講元が各地区の協力に謝辞を述べた。続いて修復された南基、北基の両常夜灯石灯籠の除幕式の方に移り、来賓等により除幕が行われた。紅白の綱に引かれた白い布の下から、名前を刻んだ石灯籠の基盤が現れると、一斉に拍手が起こった。玩具人形業界が翫物商と呼称されていた時代から2百年以上も続いたその石灯籠の歴史の重みを感じた人も多かったようである。続いて完成したばかりの住吉大社記念館で竣工祝賀会が開催された。こうした大きな予算を必要とする改修工事は、「大阪玩具・人形住吉講」と云う任意の「講」が業界をリードし、協力して現代の少子化現象に対応し、将来的には大同団結して事に当たろうとするエネルギーを象徴しているかのようにも見えたのであった。






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