大阪玩具・人形住吉講

2017/02/27

第一章 住吉講及び常夜石灯籠の歴史(5)
(五)昭和3年の改修
明治15年(1882年)の改修から数えて46年目の昭和3年11月に昭和天皇の即位の大礼が執り行われた。続いて京都御所を拠点に大がかりな新天皇のパレードが展開された。世に言う「御大典」である。
余談になるが、野村財閥の総帥であった二代目野村徳七は京都・南禅寺にある別荘で皇后陛下をお慰めするために、節なしの檜で能舞台を特別に作らせたというエピソードがあるように、関西は「御大典」を大歓迎したのであった。人形・玩具業界もこの「御大典」を記念して、10月を目標に石灯籠を改修しようという話が出て、東京や京都、名古屋に呼びかけて実施されたようである。
もちろん、昭和3年(1928年)に現役で活躍されていた人は全て鬼籍に入っておられ、その様子を直接聞くことは出来ないが、子孫の方がたくさんおられ、当時の写真などで或程度までは判るのである。この時点では、明治15年の改修時にくらべると日本も既に大発展を遂げていた。つまり富国強兵策をとった明治政府は、日清・日露の戦争を経て、第一次世界大戦では戦勝国に名をとどめ、列強の仲間入りをしていたのであった。
また大正デモクラシーが終焉して、不景気を海外進出で補おうとする財閥と軍閥の利害が一致し、「満州某重大事件」をきっかけに、軍部が独走し出す時でもあった。
その頃に「御大典記念」として再建された石灯籠の南基と北基の名前の後に発起人として、次の方々の名が刻まれている。南基には、笠原庄兵衛、宮城中、竹本喜太郎、三木伊作、吉田仙之助、榊三良、山田仁兵衛の七氏、そして北基には高松重兵衛、東谷岩次郎、高松徳三郎、新東綱三郎、尾上萬太郎、村井留吉、三木直吉の七氏のである。
この十四人の方々が大阪玩具商の当時の代表者と言ってよく、その中の何人かが講元となり、業界に働きかけ、再建が実現したと見て間違いなさそうである。
大正天皇の崩御が年末ぎりぎりであったため、翌年は昭和2年となり、その2月に「大葬の礼」が行われたから、石灯籠の再建話はその後のこととなり、意外とすんなりと決定して実行されたような印象を受ける。
昭和3年11月現在で講を構成されていた方々は旧基礎部分正面に彫られた名前から次の方々と思われる。

南基 作田孫兵衛 檪秀 三郎 林  景造 橋本竹次郎
長嶋重兵衛 水上弥太郎 川嶋宗次郎 山本 柳吉
尾野 幸吉 池上安二郎 小林楢次郎 藪田多根吉
浅田亀太郎 柳本 静吉 若林金次郎 岡本 政之
福井善兵衛 赤松 亀松 川口桝之助 谷  嘉市
広野熊次郎 若林秀太郎 藪田吉之祐 渡壁 英一 
手嶋富三郎 安達 吉松 古寺奈良蔵

北基 吉村安兵衛 榎本松之助 扇野 常七 玉山茂三郎  
原田亀次郎 松井栄一郎 井関 粂次 中根 萬吉
池川政太郎 塩路米次郎 谷本 要助 角木 さく
井上平次郎 石川兼次郎 岩本 徳平 中根 萬蔵
高橋猪三郎 中川 吉蔵 椿山豊太郎 科野 米蔵
笹岡 きし 木村嘉衛門 森岡 善吉 浅野 良蔵
辻  宗七 永来宗兵衛 津田 定雄

発起人を入れると総勢68人の大阪玩具商が名前を連ねているが、今から73年前のことと比較的近いこともあって、身近に感じられる方も多いと思われるのである。
先に少し述べた通り、昭和の軍国主義はこの辺りから勃興し、昭和6年には満洲事変が勃発し、翌7年には上海事変、12年には支那事変、16年にはとうとう大東亜戦争を引き起こすまでエスカレートしていくのである。住吉大社の権宮司吉田熙氏の話によれば緑に囲まれた住吉大社は市域のはずれにあったのが幸いして戦災を免れたのも祭られている住吉大神の加護のおかげであるとのことである。
戦後の噂にあったように、もし広島に投下された原爆が大阪に落とされていたら、或いは石灯籠も粉々になり戦後組合の復活に努力された伊藤厳氏が灯籠の調査に当たって難儀をされただろうということは想像に難しくない。そのような受難がない限り、石に彫られた名前は永久に残るのである。森講元と中須副講元に指示されて写真を撮ることになった「コマ犬」の台座にも、高松徳三郎、高松敬治、高松恭三と親子らしい三人の玩具商の名前が刻まれていた。
献納された日時は昭和12年4月となっていて、3ヶ月後の7月7日に起こった「廬溝橋事件」の寸前であったことがわかる。戦後、支那事変は日中戦争と表現され、大東亜戦争は太平洋戦争と名称を変えたが、常夜石灯籠とコマ犬は敗戦に至る歴史をみつめていたことになる。そして、建立から200年目の昭和36年の大改修に至るのである。







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