大阪玩具・人形住吉講

2017/02/27

第一章 住吉講及び常夜石灯籠の歴史(4)
(四)明治15年の改修
徳川幕府が倒れ、明治新政府ができるまで幕末の日本は大変な変動にさらされた。
所謂明治維新と言われる一連の動きである。王政復古の大号令で江戸城が明け渡され、江戸は東京と名を変えた。明治天皇が即位すると、新しい政府は次々と新政策を実施し、明治4年には廃藩置県が実施され、翌5年には東京と横浜の間に鉄道まで敷設されるに至った。巷では廃仏毀釈が声高に叫ばれ、お寺は荒れ放題になった。文部省が置かれ、各地に小学校ができ、また、国立銀行が開設された。そして明治10年の西南戦争等を経て、やっと人心が落ち着き出したのは、住吉大社の常夜灯籠を改修しようという話が出てきた明治15年頃ではなかったかと思えるのである。
前出の『吉徳人形ばなし』にも混乱する業界の動きが語られているので次に転載する。
明治時代に入ると、人形・玩具は節句物を中心とする傾向を次第に失っていった。
節句物については、明治6年1月に太政官から、「今般改暦に付き、人日・上巳・端午・七夕・重陽の五節句を廃し、神武天皇即位日、天長節の両日を似て、自今祝日と定められ候事」とのお触れがあったし、当時の風として文明開化が唱えられ、旧習打破が喜ばれたので、明治維新の後は三月・五月の節句飾りも暫く衰えた。
この五節句の廃止は専門業者とってはまさに死活問題であったので、東京でも、京阪地方でもいろいろ対策が講じられたが、東京では八代目吉野屋徳兵衛が率先して五節句存続の運動を行い時の政府にも陳情し、ともかくも雛や幟を飾る風習がすたることだけはなんとかくい止めた。
大阪でも五節句廃止の件は大きな問題であった。「図説日本人形史」に掲載されている明治6年の五節句に関するビラには、大阪人形屋統一として「今般五節句御廃止に付き雛人形飾りの儀彼是浮説之有り候に付き恐れながら御府庁へ御伺い申し上げ奉り候ところ人形売買の儀は勝手たる可き旨仰せ下され候に付き一同有難き仕合せにそ存じ奉り候云々」とあり、大阪府庁から許可が出たので、店頭売りも従前通り行うことになり、多分のご用向きをお願いしますと呼びかけている。これは当時の大阪の業界の人々が五節句廃止を大変心配をしたことを物語っている。
大阪では明治維新による銀目廃止、蔵屋敷廃止、株仲間開放等の一連の新政府の命令で混乱したが、落ち着くまでには暫く時間がかかったようである。すなわち、大阪府は新政府の命令として、明治5年4月に株仲間の開放令を下したが、翌明治6年には改めて株仲間に替わる同業組合の結成をうながしているのである。
「明治大正大阪市史」第一巻によると、株仲間の開放後間もなく同業組合の創立運動が台頭し、明治6年に大阪四区長が相談して、市内の主な商業者に規約を定めて同業組合を設立すべきことを勧誘した結果、明治6年10月20日以来2年間に209の組合が大阪府より認可されたと説明されている。
そんな中で、生まれたのが翫物商による同業組合「大阪翫物会」で、会の規則に同業者の許可なしに近くに開業させぬという項目があったくらいで、大変力があったようである。多分、そんな人達が「大阪住吉講」を形成したのではないかと思われる。
徴兵令や地租改正で多忙だった新政府も、明治10年の西南戦争の後は富国強兵策を取り、いろんな産業の育成に心掛けるようになる。
それを受けて、大阪府は明治14年になって「大阪堺市街商工業取締法」を公布し、大阪府下の中小企業を整備して、その経済的基盤の安定を計ろうとした。これは新しい同業組合の結成を促すもので、組合を通じて新政府や大阪府の行政指導を徹底しようとしたのである。そこで生まれたのが官庁とも連絡をもつ同業組合「大阪玩具同業会」である。
住吉大社の常夜石灯籠が改修された明治15年はこの組合の発足当初で、組合員が中心となり「大阪住吉講」を結成し、東京や京都に働きかけ、言わば新組合の初仕事として事に当たったのではないかと想像するのである。
もちろん、これは推察であって、東京や京都から言い出したと言うことも否定はできない。ともかく、明治維新を迎え、翫物商が新しい時代に立ち向かうことを住吉大社の神々の前で誓ったに相違ない。
次に明治15年11月に改修に当たった方々の名前を列記する。
南基の北面下段に彫られた名前
「大阪」として
吉村安兵衛   林 徳兵衛
津田安之助   池田宗三郎
長嶋重兵衛   広野熊太郎
村井喜右衛門   澤木嘉兵衛
山田仁兵衛   津田弥兵衛
丹羽徳三郎   宇野吉兵衛
高松善次郎   菱谷清兵衛
高橋源右衛門   辰己清兵衛
高松重兵衛   谷本 要助
信野 清助   作田孫兵衛
信野亀太郎   居村 菊松
大久保宗助   森岡竹治郎
津田新治郎   津田定治郎
塩川 鶴松   津田安治郎
笠原庄兵衛
南基の正面下段に彫られた名前
「東京」として
河野利兵衛   小林喜十郎
伊藤 助七   小林 重蔵
山田徳兵衛   杉田 利助
杉浦半兵衛   駒井七兵衛
倉持 良吉   草嶋久兵衛
山川安兵衛   中村文次郎
横山久兵衛   武澤藤次郎
明治15年であるから地名も当然「江戸」が「東京」となっているのであるが、名前の方も苗字を許されたので、以前の○○屋○○から正式の氏名に替わっているのが目新しい。第10代山田徳兵衛氏の実証によると、自分の先祖の江戸時代の名前は吉野屋治郎兵衛で河野利兵衛氏の先祖の屋号は池田屋であったらしい。
明治14年の石灯籠の改修の頃の話を「吉徳人形ばなし」から次に引用する。
当時、江戸と関西との商取引は和船による海上輸送であったため、雛人形・玩具の問屋業者は海路の安全を願い、海上の守護神である住吉大社を信仰し、「住吉講」を設け、大阪業者の発議によって東西同業者で大きな石灯籠二基を献納したこともあった。この石灯籠は現存している。その講の集会も、維新の前後には騒然たる世情に伴い、一時中絶していたこともあったが、明治14年ごろ住吉大社の拡張とともに改築の議が起こり、新しく京都および名古屋の業者も加わって改築費の寄付を行い、石灯籠の落成を見た。この時、東京側では池田屋こと河野利兵衛、吉野屋こと山田徳兵衛の二人が大阪に赴き、住吉大社に参拝している。(中略)吉野屋徳兵衛は株式会社吉徳、豊田屋長吉は株式会社倉持商店、吉野屋久兵衛は株式会社久月、増田屋は増田屋コーポレーションの先祖である。川端玉山(十軒店)・池田屋利兵衛(茅町)・松葉屋(馬喰町)の三店は大正または昭和のはじめまで営業をつづけていた。
以上の話から、石灯籠に彫られた河野利兵衛、山田徳兵衛、倉持良吉、横山久兵衛などの名前のそれぞれの先祖がわかる。それと共に南面に彫られた文字から、これらの改修工事をした業者は大阪炭屋町の石工の中村屋勘兵衛と、みかげや新三郎であることがわかる。
北基の正面中段に彫られた明治15年の改修者名
京都
辻子勘兵衛   大木 平蔵
清水治兵衛   野村清右衛門
中山庄三郎   清水甚兵衛
井上與兵衛   中村太兵衛
清水 勝蔵   竹内 甚吉
名古屋
岩田 由蔵   河村 治助
澤木源左衛門   高瀬弥兵衛
前出の山田徳兵衛氏の「吉徳人形ばなし」には、明治になって住吉講は初めて京都や名古屋の業者に呼びかけたように表現されているが、江戸時代にも住吉講の京都講元があったわけで、北基の石灯籠の最上段北面にその名が残っている。今、中段正面の名前とよく見比べると、辻子勘兵衛の先祖は鑑屋勘兵衛、中村太兵衛の先祖は和泉屋太兵衛のような気がするが、事実とは違うかもしれない。
北基の正面下段には大阪の世話人の名前がある。
大阪周旋係
宇野喜兵衛   広田熊太郎
澤木喜右衛門   村井喜右衛門
菱谷清兵衛   八阪市兵衛
信野 清助   二羽徳三郎
津田弥兵衛   浅井吉兵衛
高松重兵衛   高松善次郎
高橋源右衛門   長嶋重兵衛
津田安之助   池上 儀八
林 徳兵衛   山田仁兵衛
池田宗三郎   吉村安兵衛
大阪周旋係というのは正に発起人のことで、明治新政府の神仏分離令、即ち廃仏毀釈が一段落して、人心が落ち着き、住吉大社の整備がはかられると共に、石灯籠の改修が話題になり、それではと、東京、京都、そして名古屋の業者に呼びかけた人達である。
その中の何人かの子孫は、大正から昭和にかけて、或いは平成の今日に至るまで営々として仕事を引き継いでいるようである。山田徳兵衛氏が大正の初期に京阪へ商いに行った時に同地の得意先で、自分と同じ「○○兵衛」と名乗る人が何人かあったと記されていて、高松重兵衛、笠原庄兵衛、菱谷清兵衛、山田仁兵衛、吉村安兵衛、永来宗兵衛、清水甚兵衛と七人の名前をあげておられる。確かにこの常夜石灯籠に刻まれた名前にその中の四人の「兵衛」がおられる。高松重兵衛、菱谷清兵衛、山田仁兵衛、吉村安兵衛の各氏である。山田徳兵衛氏が商談した相手が明治15年に活躍されていた方であるかどうかははっきりしないが、名前を世襲する習慣などから考えると、そんな店が明治時代の初期から大正時代にかけて実在したことだけは確かである。







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