大阪玩具・人形住吉講

2017/02/27

第二章 住吉大社と石灯籠(4)
(四)徳川家康が奉納した住吉踊り
今年の7月28日に本誌への原稿依頼を兼ねて、森清一講元、中須久夫副講元が住吉大社を訪れた。立ち合ったのは平成10年に大阪府玩具・人形問屋協同組合連合会が50年史を発刊した時に編集の任に当たった東洋広告株式会社の吉村善郎会長と同じく写真を担当した北村倫成カメラマンである。当日は夏祭りの直前で、所用で不在の宮司に替わって、多忙な中を裂いて吉田熙権宮司が応対された。森講元が記念誌発刊の趣旨について説明された後、明治6年に寄進された絵の話になった。
その絵は社務所の2階に掲げられているので権宮司の案内で2階に上り、説明を受けた。住吉大社全景と、今まさに船出しようとしている樽廻船が描かれていた。森講元はこの絵を記念誌のトップに載せたい意向であったが、写真撮影にはガラスをはずさなければならず、絵が大きすぎるので撮影器材が更に必要と云うことで断念することになった。
吉田権宮司の話では、幕府が宝永元年(1704年)に大和川を付替たため、その土砂が堆積し、堺港も使用不能になったように、住吉津と云われた住吉大社の近くの港も利用できなくなったとのことである。
この絵のように船出ができたのはそれ以前の話で、航海の安全を祈って建設された高灯籠も今は国道26号線沿いの小さな公園に移転されてしまったと話された。帰りに立ち寄ると鉄筋コンクリートのモニュメントに変わっていて、社務所の2階に描かれている高灯籠とは大変かけはなれていてガッカリさせられたのであった。
大阪は天下の台所であり、江戸は大消費地であったから、関西で集荷された玩具人形類は大阪の港から江戸へ船便で頻繁に出荷されたようである。航海の安全を祈願して多くの業者や団体が石灯籠を寄進したことも事実である。吉田権宮司の話では北陸回りの船便も結構多く、そうした関係の廻船問屋の石灯籠も多いという。また、東北の方から町興しのため、寄進された石灯籠を調べに来るが、それに関する古文書は残っておらず、いきさつなどは不明なものが多いとのことである。中須副講元の解説では翫物商の寄進した石灯籠は業界が協力して改修を繰り返しているので管理が行き届くので、個人や会社では無理だとの話である。権宮司もそれには賛意を表され、翫物商の石灯籠を高く評価されているようであった。権宮司は文化館と呼ばれる収蔵庫に我々を案内され、豊臣秀吉や徳川家康が寄進した冑や刀剣類を見せられた。また、最近は夏祭りに徳川家康が奉納した住吉踊りやその踊りを源流とするカッポレを、東京の保存会が奉納するので是非見学されたらとも話された。
権宮司の薦めで7月31日の午後、改めて奉納された住吉踊り、カッポレを見学した。踊りは、午後1時から石舞台で奉納され、一旦休憩の後、3時頃より大鳥居付近から出発した踊りのメンバーが太鼓橋に向かって踊りながらやってきて、太鼓橋の上で奉納し、更に下って、太鼓橋の下で本殿に向かって奉納した。翫物商の建立した石灯籠はまさにこの奉納踊りの傍らにあり、木が茂ってなかったら石灯籠をバックにもっとよい写真が撮れたのにと北村カメラマンは大いに悔しがったのであった。
住吉大社では10年後の平成23年(2011年)に御鎮座千八百年式年祭が挙行される。その時までに日本の景気が回復することを期待したい。







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