大阪玩具・人形住吉講

2017/02/28

第一章 住吉講及び常夜石灯籠の歴史(2)
(二)京都の翫物商
京都の翫物商については、前記の「江戸雛仲間公用帳」の中にも記述されているので次に紹介する。これらの資料は常夜石灯籠が建立される2年前の宝暦10年のものなので、特に興味を惹くのである。何故ならこの人達の多くが京都の講元になっておられるからである。
この資料は宝暦10年3月28日付けで、江戸の雛人形仲間が京都の業者仲間宛に出した飛脚便の書簡で、その内容は「近年になって、人形の頭類が必要以上に数多く江戸へ入ってくるようになったので大変迷惑している。今後はそのようなことがないように、みなさんでよくご相談していただきたい」という意味のことが書かれている

これに対して京都の業者仲間から「雛人形や萬歳類に至るまでの頭類が近年になって、数多く出荷され、しかも近在まで出回ることになり皆様にご迷惑を掛けていることについては、こちらとしても大変気の毒に思います。それで、いろいろ相談いたしましたが、急に差し止めをするわけにもまいりません。しかし、人形職人に談じこんで今後は出荷を減らさせますので左様に思って下さい」と苦情に対処する旨返答が載せられている。この往復書簡のそれぞれの宛先の人々と差し出し人は次の人々である                                       
江戸問屋仲間 松坂屋喜右衛門
吉野屋治郎兵衛
池田屋儀左衛門
能登屋庄八
唐木屋六兵衛
松葉屋久兵衛
唐木屋七兵衛
柏尾四郎左衛門

京都問屋仲間 松葉屋久兵衛                
唐木屋忠兵衛
鍵屋勘兵衛
丸屋伝兵衛
松屋太郎兵衛
鏡屋伝兵衛
芦田屋権兵衛
芦田屋伝左衛
柏屋四郎左衛門
江戸と京都の問屋仲間同志がお互いに困ったことを相談し合っているのである。個別にはそれぞれが取引きもあっただろうし、情報交換もしていたように思えるが、お互いの共通利益のためには集団でカルテルを結んだかもしれないのである。
このような親しい間柄であったからこそ、その2年後に住吉大社に積み荷の海上輸送の安全を祈願して常夜石灯籠を建立しようとする時にも、「ア、ウン」の呼吸で決まったように思えるのである。おそらく、この書簡の往復あたりから往来も頻繁になって、そんな機運が盛り上がったのかもしれない。いずれにせよ240年も前の話でもあり、石灯籠の建立のいきさつについてはほとんどわかっていない。ただ、前記の人達の名前の多くが石灯籠の台座に刻まれていることが、そうした話し合いが円滑に行われたことを証明していると思えるのである。 
現在の継承者
それでは建立時の石灯籠の台座に刻まれた人々の現在の後継者はとなると、大変むずかしくて想像では言えない。一世代は大体30年として計算される。240年ともなると、8世代から9世代になる。それだけ永く続くにはそれなりの家運なり、堅固な商い方法なり、或いは一族の協力なりがなくてはならない。
ここに副講元の中須久夫氏から「これは確かな家系だから」と示された一冊の本がある。「吉徳人形ばなし」で著者は前記の江戸問屋仲間に出てくる吉野屋治郎兵衛の十代目の当主、山田徳兵衛氏である。
著書の中で氏は「初代は正徳元年(1711年)に愛知県の河和村から江戸に出てきて浅草で人形玩具の問屋を始めた」と述べられている。氏はやはり前記の「江戸雛仲間公用帳」を引用して、その中の吉野屋治郎兵衛がそれに当たり、徳兵衛を名乗るようになったのは六代目からであると書いておられる。
それにしてもよく現在まで続いているものだと感心させられる。それはともかく、その著書の中(23ページ)で、「当時、江戸と関西との商取引は和船による海上輸送であったため、雛人形・玩具の問屋業者は海路の安全を願い、海上の守護神である住吉大社を信仰し、『住吉講』を設け、大坂業者の発議によって東西同業者で大きな石灯籠を献納したこともあった。」と書いておられることは注目に値する。
確かに当時の大坂は「天下の台所」と言われ、物資の集散地であった。船便が江戸に向かって毎日のように船出したことも事実である。石灯籠が建立される少し前の元禄時代には紀伊国屋文左衛門が船便を活用して、大火事の後の江戸へ材木や食料を運んで大儲けをした話は有名である。当時の江戸は政治の中心であると共に大消費地であり、あらゆる物資が送り込まれたことも事実である。主力となったのは、高級な京人形京雛だったと思われるが、ほかに地方産の土偶や玩具も送られたであろうことは想像に難くない。
さて、江戸、京都の業者の話は出たが、当時の大坂の業者はどうだったのだろうか。そしてその末裔は現在どうしているのであろうか。その辺りが大変気になるのである。
近江屋、千嶋屋、鯛屋、灘屋、小浜屋、象牙屋、小西屋、宮屋、山崎屋、雛屋、和泉屋、酒見屋、絵屋などの屋号は誰に引き継がれていったのかはっきりしない。比較的古いと言われる株式会社大宗の前社長の故永来輝二氏は「うちの先祖は大和屋宗兵衛といいますが、江戸時代と言っても嘉永年間の創業です。」と語っておられたし、株式会社中川雛人形店の故中川吉蔵氏も「私は二代目を襲名していますが、先代は瀬戸物町の紀州屋からの暖簾分けで、明治23年に創業しています。」とはっきりおっしゃっていたわけで、その紀州屋と言う屋号も見当たらないところを見ると、大坂の業者は変化が激しいように見受けられる。この二社も最近になって人形問屋を辞められていることがそれを象徴しているようでもある。







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