大阪玩具・人形住吉講

2017/02/27

第一章 住吉講及び常夜石灯籠の歴史(1)
(一) 宝暦12年 常夜石灯籠の建立
今から240年前、宝暦12年(1762年)に住吉大社に常夜石灯籠が建立されたいきさつについては、あまりにも古く、資料もないためにはっきりしない。住吉講の関係では、石灯籠の建立される7年前である宝暦5年(1755年)7月に起草された「覚」とある古文書が存在する。その中で「住吉講は仲買い人仲間の親睦のため、毎年3月に会合を持つのだが、近頃はその定方が乱れ、銘々の商売が我れ勝ちになっているので、皆で相談の上、今後は定め書きを守るようにすること」と記されている。
この資料は、商売上の道義を正そうとする意図にしろ、「住吉講」そのものはもっと古くから存在していたことを物語っている。ただし、残念ながらこの古文書が江戸のものか、京都のものか、また大阪のものかは今の時点ではっきりしていない。
しかし、当時の住吉講を構成していた翫物商の人達が住吉大社に建立された石灯籠の台座に刻まれた名前から判ることはありがたいことである。
石灯籠は二基が一対となっているが、便宜上、南側の石灯籠を南基、北側にあるのを北基とよんでいる。南基、北基共に灯籠の正面に大きく、「翫物商」と彫られていて、それが当時翫物商(がんぶつしょう)とよばれていた玩具や人形を商っていた人達により航海の安全を祈って建立されたことを示している。そして、灯籠の横に「江戸住吉講」と彫られているのは、江戸の商人達も協力したことを物語っている。
この石灯籠は建立以来、文化5年(1808年)、明治15年(1882年)、昭和3年(1928年)、昭和36年(1961年)、平成3年(1991年)と5回も改修をされていて、その都度に寄進した膨大な数の人名や社名が彫られている。
今回、記念誌を刊行するに当たり、その辺を整理してみることにした。そうした作業をすることにより過去の歴史が多少とも我々の前に明らかになると思えるからである。南基の北面上段には宝暦12年の「江戸講元雛一番組」として次の名前が彫られている。
松葉屋久兵衛
池田屋儀左衛門
吉野屋治郎兵衛
唐木屋六兵衛
松坂屋喜右衛門
能登屋庄八郎
池田屋理兵衛
これらの人びとが如何なる人びとであったかは、宝暦年中から始められた「江戸雛仲間公用帳」にあげられている人名からおよその見当がつくのである。当時の江戸では幕府が町人の奢侈にはしることを警戒し、雛人形の大きさまで規制したといわれる。時は正に、華やかな元禄時代が過ぎて60年、享保の改革期であった。幕府からの厳しいお達しに対し、人形を商う商人が連名でその猶予を申し出ているのである。その時期は宝暦9年11月24日で、常夜石灯籠を建立する3年前に当たる。
「江戸雛仲間公用帳」の中に「恐れながら書き付けを似てご訴訟申し上げ候」ではじまる奉行宛の書類があるが、内容を簡単に記すと次の通りである。
「私共は雛人形手遊び類を商っているものですが、この7月のお触れで、ただ今商いしている雛人形や道具類に該当するものがかなりございます。当年中に値引きして売り払えばよいのですが、そうもいかず、何卒来年の3月の雛節句まで待っていただきたい。
京都の問屋への払いや職人への支払いもあり、大勢の者を助けると思ってお慈悲をもって願いを聞き届けていただきたくお願い申し上げます。」
読んでいるとその当時の雛人形を扱う商人の必死の叫びが聞こえるようである。この連判状には次の人達の署名捺印がなされている。
南伝馬町二丁目 嘉兵衛店 願人 久兵衛 (松葉屋久兵衛)
通三丁目 久四郎店 同 六兵衛 (唐木屋六兵衛)
浅草茅町一丁目 宇兵衛店 同 喜右衛門 (松坂屋喜右衛門)
同町 三右衛門店 同 次郎兵衛 (吉野屋治郎兵衛)
同町 家主 同 儀左衛門 (池田屋儀左衛門)
浅草茅町二丁目 清兵衛店 同 庄八 (能登屋庄八郎)
本石町二丁目 伝兵衛店 同 五郎兵衛
室町二丁目 久兵衛店 同 四郎左衛門
本石町二丁目 平兵衛店 同 七兵衛
本町三丁目 宗兵衛店 同 伝兵衛
浅草東仲通 久兵衛店 同 庄兵衛
下谷池の端仲町 藤兵衛店 同 平兵衛
尾張町二丁目 又左衛門店 同 藤兵衛
同町 同人店 同 庄助
芝神明前 三郎兵衛店 同 金左衛門
本石町二丁目 甚兵衛店 同 忠助
町人は名字が許されなかったため奉行所宛の願い事の書類などは上記のとおりであるが、その代わりそれぞれ屋号を持っていたようである。屋号の入った私信などと照合すると、( )内の堂々たる名前になるわけで、石灯籠の台座に彫られた〇〇屋〇〇という名前にはそうした翫物商人としての誇りが感じられるのである。

南基の南面上段にはそうした屋号を持った大坂の翫物商と思われる以下の名前が彫られている。
松坂屋市右衛門 吉野屋平七郎
唐川屋伊兵衛 綿屋久兵衛
萬屋宗八郎 松屋庄左衛門
越後屋半七郎 大黒屋三右衛門
大黒屋喜惣次 芳屋伊兵衛
伊勢屋治兵衛 桔梗屋藤助
同 文右衛門 津国屋又右衛門
同 権兵衛 同 徳兵衛
同 助七郎 長嶋重郎兵衛
佐野屋孫八 中村屋忠兵衛
南基の南面中段には江戸の翫物商として次の名前が彫られている。
大槌屋平兵衛 橘屋信濃
平松屋藤兵衛 唐木屋七兵衛
柏木屋伊兵衛 大坂屋七郎兵衛
西村伊右衛門 角谷喜右衛門
大坂屋孫八 大谷佐右衛門
上総屋與八郎 稲毛屋冶兵衛
桐谷忠次郎 井桁屋理右衛門
柏屋四郎右衛門 柏屋庄兵衛
池田屋久右衛門 中島屋七郎兵衛
内田甚右衛門 木屋久兵衛
面屋善七 小林茂兵衛
南基の北面中段にも江戸の翫物商として次の名前が彫られている
吉野屋勘兵衛 大槌屋清兵衛
村田屋徳兵衛 山屋喜三郎
木村屋彌兵衛 伊勢屋辰七
雛屋茂兵衛 駿河屋太左衛門
上野屋七兵衛 伊勢屋茂七
雛屋半蔵 花澤小四郎
茗荷屋茂兵衛 秩父屋庄衛門
河内屋権平 亀屋五郎兵衛
西村與八 宮川七郎右衛門
葛西屋五兵衛 衹屋惣兵衛
杉本屋九兵衛
北基の北面上段には京都講元として次の人々の名前が彫られている
鑑屋勘兵衛 水口屋治兵衛
丸屋伝兵衛 甲屋重次郎
松葉屋久兵衛 若松屋伝兵衛
芦田屋伝右衛門 若松屋又兵衛
枩屋七郎兵衛 勝村治右衛門
芦田屋権兵衛 松屋武兵衛
鑑屋宇兵衛 伊勢屋善兵衛
藤屋喜助 和泉屋太兵衛
奈良屋伊兵衛 松屋平八郎
北基の南面上段には大坂講元として次の方々の名前が彫られている
近江屋源兵衛 小西屋源右衛門
千嶋屋喜右衛門 千嶋屋彦三郎
鯛屋喜左衛門 宮屋喜兵衛
灘屋治郎兵衛 山崎屋宇兵衛
小濱屋七郎兵衛門 雛屋久兵衛
近江屋興次兵衛 和泉屋新三郎
象牙屋勘兵衛 酒見屋利兵衛
近江屋安兵衛 繪屋吉兵衛
以上が今から240年前に翫物商として、江戸、大坂、京都で活躍されていた人達である。
こうした方々の子孫のうち何人が現在も玩具人形商として商いを継承されていることであろうか。







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